追跡! まぼろしの八高線衝突事故

昭島市教育委員会から発行された『追跡! まぼろしの八高線衝突事故』を読みました。現地の施設に問い合わせて入手しました。合わせて他にも鉄道関係の資料を2冊手に入れているので順次読んでここに書く予定です。

終戦直後に八高線小宮-拝島間の多摩川橋梁上で正面衝突事故が発生し、乗員乗客合わせて100名以上が死亡しました。この事故自体は知っていたのですが、詳細はこの本を読んで初めて知りました。この本でも指摘されていますが、この後高麗川の近くで客車が脱線転覆して日本国内の鉄道で最多の死者を出す事故が起きるので、八高線の事故というと混同されている感があります。多摩川橋梁での事故は、終戦はしているもののまだ進駐軍が日本に展開を始めていない1945年8月24日発生という終戦直後の事故なので、記録が乏しいようです。当時の新聞も、終戦後の処理と進駐軍の展開について報じるのが精いっぱいで、事故については写真も載らないベタ記事扱いだったそうです。今なら連日トップ記事になるような事故なんですけどね。

実にいろいろな角度から調べていて感心します。当時の新聞記事はマイクロフィルムなどを調べてあらかた事故関連の記事を出していますし、1冊だけ刊行されたというこの事故に関する本も調べていて、そのおおもとになった『サンデー毎日』の記事まで紹介されています。そして事故の生存者を探してインタビューをしており、まあよく調べたものです。ただ調べた人はあまり鉄道の技術面に詳しくない感じはありますね。

当時の八高線は通票閉塞を施行しており、当日通信が途絶したために小宮駅長が指導式の施行を決定、八王子と拝島の両方に指導者を歩いて向かわせたが、その指導者を乗せて八王子から来た下り列車が、なぜか小宮で八王子-小宮の指導者を降ろさず、小宮-拝島の通票も指導者も乗せずに出発して、拝島から指導者を乗せてきた上り列車と正面衝突した、というのが事故の実情だったようです。これは指導式の取り扱いを完全に間違えている感じです。小宮は列車交換設備があって閉塞境界なのですから、併合閉塞を施行するというのでない限り八王子-拝島を1人の指導者で処理することはできず、小宮でそのまま乗っていってしまったのがおかしいのですよね。やはり戦時の混乱による訓練不足だったのかもしれません。

興味深かったのは、小宮-拝島間に当時南昭和という仮乗降場があったのだそうです。この仮乗降場は『停車場変遷大事典』でも触れていないですね。昭和飛行機への通勤客の便宜を図ったのだそうで。しかも事故当該の上り列車はここに停車して1人乗せているということまで突き止めています。事故で数日不通となり、運転再開時にこの仮乗降場は休止になってそのまま消えたのではないかと推測されていますが、何も告示や報道がないため不明なようです。

薄い本ですが、結局事故原因については取り扱い誤り以上のことが言えませんし、インタビューなどに多くの紙幅を割いていて、どんなエピソードがあったのかの方が中心という感じです。やや同じ話を繰り返している感もありますが、良い本だと思います。

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